差別問題はもちろん性的マイノリティー差別以外にも、深刻なものがたくさんある。
しかし、保毛尾田問題は純粋な性的マイノリティー差別の問題だけではなく、タレントが行う表現についての問題やテレビというメディアの公共性の問題に派生しているためここまで大きく取り上げられたのだと思う。
表現はどこまでも自由
まず大前提として表現は自由だ。
それが下品だと言われようと、気分を害すると言われようと、そして差別的であってもかまわない。
「特定の人物を攻撃するような表現や名誉毀損になるような表現をしてもいいのか!」と思うかもしれないが、いいか悪いかという判断をする次元が違う。
人は悪事を働いてしまうものであり、その事自体をどうすることもできない。
表現も同じで、人がどんな表現をしようともそのこと自体を抑えることはできないのだ。
その上で例えば名誉毀損をされた場合、泣き寝入りするのか、言論で言い返すのか、法的手段をとるのか、武力を行使して叩き潰すのかなど、反撃や防御をするのも自由ということになる。
そういったことの繰り返しの結果、名誉毀損に当たる表現は止めておこうと思う人も出てくるかもしれない、というだけだ。
つまり、人に表現をさせないようにするというのは相当な力を要するということが大前提になることを忘れてはいけない。
保毛尾田保毛男は差別的な表現だったのか
原則論ばかりではつまらないと思うので、そろそろ各論に入っていきたい。
保毛尾田保毛男のネタを差別的だという立場と、お笑いタレントの芸であり差別的な要素はないという立場がある。
差別的だという立場の人の意見はこんな感じだ。
木梨憲武にも差別意識があるからあんな芸になるんだ。
とんねるずに差別意識がなくても悪影響がある。
石橋貴明だけの問題ではなく、それを放送する制作サイド全体に差別意識がある。
保毛尾田保毛男を見て笑う視聴者にも差別意識があるから笑うのだ。
差別的ではないという意見はこんな感じ。
差別の問題ではなく、とんねるずの芸が面白くないことが問題だ。
残念ながら差別的ではないという側の意見はバリエーションに乏しく、まとめるとほとんどみんな同じことを言っていた。
「差別的で何が悪い。俺はホモを揶揄する芸を面白いと思う。」という意見もあっていいと思うのだが、テレビ番組での表現だったこともあってか名のある人でそういう意見を言う人はいなかった。
保毛尾田保毛男は当然差別的表現だ
では私自身の意見を述べていこう。
まず保毛尾田保毛男は当然差別的表現だ。
子供が「ホモ!ホモ!」と言って笑うのと同じで、男性同士の同性愛が普通ではなく、同性愛者は普通の人とは違うという前提があるから成り立つ表現である。
「ホモでなくて…あくまで噂なの。」
このやり取りは同性愛者であるという設定のキャラクターが何か面白いことをして人を笑わせているのではなく、同性愛者であるかどうかということを笑いにしているため、差別以外の何ものでもない。
そのため一定数の人がこの表現に不快な思いをすることは当然だろう。
テレビは商売である
保毛尾田保毛男は差別的な表現であるし、海外でやれば大問題になるような表現であることは間違いない。
保毛尾田保毛男のようなキャラクターを演じることを止めさせようとする動きは今後も進むだろう。
しかし差別意識がないのであれば、遠慮なくガンガン演じるべきだ。
いや、もっと言うと、差別意識があってもそれを面白いと思い、その面白さを伝えたいという信念があるのであればやめるべきではない。
ただしそのどちらであったとしても、現在のテレビ局がそれをさせてくれるかというと難しい。
テレビのビジネスモデルが広告収入によって成り立っているので、スポンサーにそっぽを向かれると何もできなくなる。
テレビでの表現というのは芸術ではなく商売なので、出来る限り利益があがるようなものを作るべきであり、いくら面白くて質が高くて勉強になっても儲からなければ意味がないわけだ。
いくら外野が「こんなことではテレビがつまらなくなる」とか「こうすればもっとテレビが面白くなる」と言っても何にもならない。
ちなみに、過去にインターネット系の会社が「こうすればテレビ局はもっと儲かるようになる」という提案をしたときは、「テレビの文化を壊すつもりか!」というアホな声を隠れ蓑にして単に既得権益を守ろうとする動きがあった。
つまり、保毛尾田保毛男問題に関しては、差別問題や表現の問題に加えて「既得権益側の利益」という大きな問題があり、それがテレビ村は視野が狭く古いと言われる元凶であることが非常にややこしくさせているのである。
(つづく…かも)