保毛尾田保毛男問題についてある程度意見が出尽くしたようなので、なんか書いてみる。
保毛尾田保毛男問題の概要はこうだ。
9月28日に放送された「とんねるずのみなさんのおかげでした」の30周年記念特番で石橋貴明が「保毛尾田保毛男」を28年ぶりに演じる。
性的マイノリティー差別だとの批判を受け、宮内正喜社長が29日に行われた定例社長会見で遺憾の意を表明。
という流れなのだが、ネットなどではこれらについて様々な意見が飛び交った。
大変健全でよろしい。
一つ一つの意見に対して自分の意見を書いていこうとしたのだが、徒労感がハンパなく挫折…。
こういった問題は重層的になっていて、レイヤーが違う問題で激しくバトってる方々も散見された。
そこで意見ごとではなくレイヤーごとに思うところを書いていきたいと思う。
差別はなくならない
差別はよくないことだが、人間の心理の構造として差別はなくなることはない。
もちろん一つ一つの差別に関しては少しずつ啓蒙して減らしていくことはできるだろう。
しかし、新たな差別が日々生まれるので、根本的にゼロにすることは不可能だ。
心の中で何を思っても自由
差別はいけないのだが、差別意識を批判することはできない。
ネット上でやりあっているものの中で「差別意識があるからそういう発言になるんだ。」という批判を目にした。
しかし相手の心の中に差別意識があろうがなかろうが、それをどうこうしようというのは相手の思想信条を踏みにじる行為になる。
正義を振りかざして横暴な行為をするのも人間の本質であるので、これもいたるところで見受けられる行為だ。
権利を勝ち得るということは戦争に勝利すること
これは差別の問題だけではないのだが、「こうなって欲しい」という理想を実現するということは戦争に勝たなければならない。
戦争に勝つ方法は何も武力行使だけではない。
経済や情報操作、啓蒙なども戦争に勝つ立派な手段だ。
不当な差別を受けているのは性的マイノリティーだけではないが、性的マイノリティーの問題に関しては本人やシンパシーを持つ人々の長年の努力により、少しずつ勝利に近づいているというのが現状である。
武力を使った戦争の場合、正当な攻撃を逸脱し、無辜の民の血が流れることはよくある。
性的マイノリティーの権利の争いでも、無辜の民に被害が及んでしまうことは不可避だ。
それを回避するため、「腫れ物に触らないように」行動する人々がいるのは当然で、それはまだ戦争の真っ只中であることを証明することにもなる。
無関心な人の存在への接し方
どのような問題も必ず無関心な人がいる。
自分たちが必死になって戦っているときに、無関心な人を見るといらだち、攻撃対象としてしまうことがよくある。
しかし無関心な人を一人一人啓蒙したところで、問題が解決することはありえない。
無関心な人すべてが、不当な差別を受けている人の心を汲み取り、聖人のように振る舞ってくれることを目指すより、空気を変える、潮目を変えるといった方法がいいだろう。
少し具体例を挙げよう。
ある時、被差別部落の問題で戦ってる人が女子高生に啓蒙しようとしていた。
しかしその女子高生は被差別部落問題は歴史の教科書か何かに載っているような過去のことで、現在も存在しているとは全く思っていなかった。
つまりもちろん部落差別をする意識は全くなかったのだが、その解放運動者は「知らないということは差別を繰り返すおそれがある」と言って、女子高生に無知を反省させるような言動をとっていたのだ。
ご苦労さん、としか言いようがない。
表現の規制と公共性
保毛尾田保毛男というキャラクターを公共の電波を使って放送することについての賛否について様々な意見が出た。
表現の問題についてもそれ自体また重層的なものであり、長くなりそうなので続きは次回。